Part・
---住・見・聞---
UNDP−NY本部 Energy & Atmosphere
Programme
プログラム・オフィサー:高田 実
はじめに
私は、1996年3月より南部アフリカのアンゴラ共和国に滞在し、UNDP(国連開発計画)にてJPO(Julior Professional
Officer)として主に環境・エネルギーに関わる仕事に約2年間従事した。アフリカ行きは、青年海外協力隊でのガーナに続いて2度目である。今回は、一般にはなじみのないアンゴラという国で私が見聞したことと、国連での仕事とは?について簡単にに紹介したいと思う。
アンゴラ?
ほとんどの人はアンゴラといってもなじみがない、いや、はっきり言って、どこにあるのかよく知らないのではないだろうか。今では、アフリカも多くの国々に日本人が訪れているため、滞在記や旅行ガイドブックもかなりある。しかし、アンゴラに関しては、詳しい事情を紹介しているものを日本で見つけるのは簡単ではないだろう。実際、赴任前にわかったことといえぱ、この国は人口1500万、1975年にポルトガルより独立、過去30年間内戦状態にあり、出入国管理はきわめて厳しく、現在も過去も日本人は極めて少数、などという程度。更に、埋蔵地雷の数は推定1000万個、世界最大規模の国連PKOが展開中であるらしい。はっきり言って、これは辞めておこうと最初は思った。なんか危険だし仕事にならないようにも思えたのである。しかし、再生可能エネルギーのプロジェクトという願った通りの仕事であった上、行ったことのない南部アフリカに行けることは、ためになるにきまっている。不安はどっさりあったが、周囲の理解もあり、結局行くことにした。
(元)美しい港町ルアンダ
UNDPアンゴラ事務所に赴任したのは、3ケ月も日本にて待たされたあげく、1996年の3月初旬であった。シンガボール、ヨハネスブルクと乗り継いで、日本を出て35時間後、ルアンダ(Luanda:アンゴラの首都)に到着:飛行機から見る市街地はかなり大きい。ガーナの首都アクラの数倍はあるだろう。
ルアンダは港町である。大西洋を望む小さな丘に沿って出来上がった町は、ポルトガル風の建築物を多く残し、ゆっくりと湾曲した2kmほどの海岸に沿って、古いがかつてはボルトガル人の高級住居であった10階建てほどのビルが立ち並ぶ。内陸に向かって100mほどの丘の途中には、70年代に建設が始まったが、その後放置されたSheraton Hotelの基礎が残る。大西洋に夕日が沈むころに高台から見下ろすルアンダは赤屋根と白壁のポルトガル風建築独特のひなびた雰囲気をいっそう引立たせ、南来のどこかのピーチを思わせるほど美しい。特筆すべきは海岸に並行するように突き出す幅200m、長さ10kmほどの半島。ここにはビーチとたくさんのレストランがあり、週末は大混雑となる。しかし、この美しい港町も、今ではCンフラは崩壊し、City of Smellと酷評されるほど、ごみで埋め尽くされている。過去30年の内部紛争により、アフリカ第三位の石油産出量と豊富なダイヤモンド、金、その他の鉱物資源に恵まれ、また、かつては大量の綿花、コーヒーを産出していた1次産業大国は、ボロボロになった。戦争で深刻な打撃を受けた農村部では、村落が崩壊し国内外350万人以上にも及ぶ大量の難民が発生し、その多くはルアンダに流れこみ、旧市街地の周りに巨大なスラムを形成している。
その歴史は”冷戦の孤児”
アンゴラ内戦の原因と過程は複雑で、ここでは簡単に経緯を紹介するにとどめる。1960年代に入ってボルトガルの植民地からの独立運動が盛んになり、特に3派(MPLA,UNITA,FNLA)が主体となる。1975年にアフリカ,アジアのポルトガル領はすべて開放されるが、その後もこの三派による主導権争いが続き、特に、首都を中心に海岸線の主要都市を基盤とするMPLAは、同年11月に独立を宣言し、アンゴラ政府を樹立する。これに対して、内陸中南西部を基盤とするUNITAは反発を強め、内戦となる。MPLAは独立当初より社会主義体制に傾倒し、旧ソ連、中国、キューバとの関係を強める。時は冷戦真っ只中、アメリカはMPLA政府を認めず、UNITAを支持、更にUNITAはアパルトヘイト下の南アフリカとパートナーを組む。海岸沿いに大量の油田を持つMPLAと、内陸のダイヤモンドをもつUNITAは、双方尽きることのない資金と冷戦下の2大国の支援をもとに、冷戦の代理戦争ともいえる戦闘を延々と繰り広げた。十数回の停戦決議と1度の和平条約の失敗の後、2度目の和平条約が91年に結ばれる。92年には国連監視団の下、初の大統領選挙がMPLAのドス・サントスとUNITAのサビンビによって争われ、ドス・サントスが勝利するが、これをUNITAは認めず、内戦が再開。冷戦構造の崩壊とともに、内戦は完全な利権闘争と化す。1994年に3度目の和平条約(ルサカ合意)が調印される。97年には、ルサカ合意に基づき、新しいひとつの政府が樹立されUNITAも参加するが、UNITAはいまだに巨大な兵力を有し、3度目の和平案も失敗の声がささやかれている。
アンゴラ国民は、内戦当事者のみならず、冷戦下の世界の政治的要因にも翻弄されつくされた。92年までアンゴラの国連PKOの責任者であったマーガレット・アンスティは、彼女のアンゴラでの活動を記した著書を“冷戦の孤児”と題している。
仕事:はじまりはいつも難しい
現在のアンゴラは準内戦中ともいえる伏態にあり、国連の各機関の仕事は、和平条約のゆくえに大きく左右される。国連高等難民弁務官、ユニセフ、世界食科計画、国際労働機構などは、難民のための援助や、元兵士の社会復帰などの事業を集中的に行っている。UNDPでは、元兵士の社会復帰のための職業訓練ブロジェクト、荒廃した地方の再建計画、マクロ経済政策構築の仕事を政府機関と共に行う。しかし、現実のアンゴラには2つの政府が存在するため、ブロジェクトの実施は困難を極め、また、時には危険でもある。
さて、私の予定されていた仕事内容は、南部アフリカ地域において再生可能エネルギー(太陽光、風、水力エネルギーなど)のブロジェクトを、各国政府関係者とともに作成し、銀行・地元の企業を巻き込んで実施しようという国家間事業である。おおよそアンゴラらしくない、もっといえぱ、アンゴラに居る必要のない仕事だ。なぜアンゴラかとういうと、南部アフリカ各国は、SADC(Southern Aflica Development Community:南部アフリカ開発共同体)という東南アジアにおけるASEANに相当する地域機構を形成しており、アンゴラはその中でエネルギー局の担当だからである。幸か不幸か?!このような数ケ国にまたがる仕事を行う場合には、交通と通信が整備されている場所を確保するのが重要であるが、その点アンゴラはまさに正反対の極にあるといえよう。事実、通信の問題には最後まで苦しむことになった。初出勤当日、UNDPの事務所では、デンマーク人の副所長が対応にあたってくれた。にこにこと出迎えてくれた彼は、次のように言った。「君のプロジェクトはまだ始まっていないよ。しばらくゆっくりしていることだな。」いきなりやってくれるではないか。95年9月からスタートしたから、はやく来てほしいと言っていたのはいったい何だったんだ?? アンゴラに既に来ているはずのSADCのプロジェクトの責任者(つまり私の上司)はいまだ来づ、更に、SADCエネルギー局からはプロジェクトが始まるまでは来てもらっては困る、などといわれる始末。数日後、UNDPのファイルの過去の記録から、ニューョークのUNDP本部とUNDPアンゴラ事務所との間に大きな誤解が有ったことがわかったのだが、もう後の祭りである。こうして、アンゴラでの仕事は取りあえず図書室に仮の机をおいての、風来坊のスタートとなった。(次号に続く)
高田実プロフイール ・平成2年度1次隊 ガーナ共和国・理数科教師 ・1996年3月から南部アフリカのアンゴラ共和国へJPO(Junior
Professional
Officer)として主に環境・エネルギーに関わる仕事に従事した。