カザフスタン旅紀行
横井 俊明(昭和63年度1次隊:地震学)
窓が白んできたなと思ったら、カンカン照りになった。街のすぐ南に3000m級の天山山脈の支脈があるので、夜が明けるのが遅い割には、これである。5階のベランダから下を見れば、二連のトロリーバスがけたたましく通り過ぎていく。やっと異国に着いた実感が湧いてきた。窓の外には緑に覆われた公園のようなアルマトイの街がひろがっている。
とにかく慌ただしかった。要請書が不備で現地へ差し戻したと言うから「もうこの夏は派遣は無いなあ」と思っていたらお盆前になっていきなり派遣が決まったというのだから。おまけに、日程が詰まっていると言うのに、一回わざわざフランクフルトヘ12時間かけて飛ぴ、そこから東へ6時間飛んで現地入りという旅程である。何考えてんだか、組んだ人の気が知れない。気が知れなくても身体は疲れるちゆうんじや。
さて、カザフスタン共和国はどこにあるのでしょうか? 大体が内陸国は目印になる半島や湾とかがないので覚えにくいものである。自分なんぞは、未だに慌てると栃木・群馬・埼玉の三県を取り違える。まして、巨大国家である中国の向こうにある大田舎の国なんぞ知っているとすればシベリア抑留者の御家族くらいであろう。シルクロードは中国の西安を出て西に向かいタリム盆地を通ってパミール高原に達する。タリム盆地の北辺を区切るのが天山山脈であり、そのままパミール高原の北をさらに西へ伸ぴている。パミール高原はタジキスタン共和国に属し、そのすぐ北に山国キルギスタン共和国があり、オアシス都市として有名なサマルカンドやブハラはウズベキスタン共和国に属する。そして、カザフスタン共和国はキルギスタンとウズベキスタンの北にあり、カスピ海北岸からバルハシ湖の東にまで広がる広大な草原の国である。
タジキスタンやウズベキスタンが、かなり昔から定住化したオアシス農民の国であったのに対して、トウルクメニスタン・キルギスタン・カザフスタンは帝攻ロシア末期の定住政策以前は完全な遊牧民の国であった。いろんな民族が入れ替わり立ち替わり出現しては消えていく中央アジアの歴史は読んでいると頭痛がしてくるくらいに複雑で結局よくわからない。カザフスタンの主人公カザフ人の出自もやはりよくはわかつてはいないようだ。「カザフ」というのは「冒険者達」という意味だそうで、15世紀半ばにウズベク族から分離し、北へ向かった反乱者を指すのだそうだ。ややこしい歴史を見ていると、天山山脈以北はあまり大帝国の支配下に入っていない。入った場合もあくまで辺境地としてである。何かこう、青雲の気が横溢するような感じがして大変よろしい。かく言う我々も、モンゴル系で膠着語を操るという以外出自は不明であり、中華から無視された極東の辺境にありながら太古より樺太から東シナ海にかけて大量の海賊を放出し、今日では世界経済に覇を競うという、よくわからんが元気な民族なのである。まあ、カザフ人とは似た者同志。我らは海原に暮らし、彼らは草原に暮らす。現在、ほとんどョーロッパにあるトルコ共和国のトルコ人は、実は大昔にはシベリア東部からモンゴル辺りで遊牧生活をしていたのが、次第に西遷して現在に到っているのだそうだ。そして中央アジアには今でもトルコ系の民族が沢山住んでいて、カザフ人は中でも遊牧民としての特徴をもっとも色濃く残す集団だそうだ。トルコ共和国のトルコ人はョーロッパ人と混血しているのであまり東洋人の顔をしていないが、カザフ人はもろに東洋人である。しかも、中国人よりもずっと日本人に似ている。食生活の違いから中年以上の人は肥え方が違うのでまだ区別がつくが、青少年や痩せた老人はまったく日本人と区別がつかない。おまけに、ちょっとした立ち居振舞い、例えば、日射しに目を細める仕種、額の汗をぬぐう仕種なんかが日本人そっくりなのである。見知らぬ街で、自分の親戚そっくりの人とすれ違うのは何とも妙な気分である。赤ん坊には蒙古斑もちやんとあるとか。なによりも、文法構造から言うと日本語・朝鮮語は共にウラル・アルタイ語族に属し、もともとこの辺の言葉なのだそうだ。うむむ、御先祖様の国に来てしまったのだ。しかし、白人はトルコ人の東洋的な特徴を見てトルコ的と感じ、我々東洋人はトルコ人のヨーロッパ的な特徴を見てトルコ的と思っているとは奇妙な話である。そして白人が感じているトルコ的なるものの究極にはなんと我々東洋人が居るのだ。う一む、そうかあ、そうだったのかあ。意味も無く大感激である。
宿舎は豪華にも5つ星のオトラルホテル。「オトラル事件」のオトラルである。ホラズム帝国の太守がチンギスハーンの送った友好使節団を虐殺した事件で、これがきっかけでモンゴルの大西征が始まり、中央アジア全域が血に染まったのだ。不吉な名前の割には、いかにもソ連のホテルという重厚な感じのする建物である。もちろん日本のビジネスホテルみたいに細かいサービスは無い。でも部屋に冷蔵庫があるのは、猛暑だけにありがたい。えらく世の中が乾燥しているのでやたらに喉が渇く。
国際空港としては異様に小さくて、空港名がぼんやりと水色のネオン管で描いてあるアルマトイの空港に着いたのは夜の11時で、おまけにルフトハンザが荷物をなくしてくれたので、最後の最後まで待ってから紛失届けと捜索依頼を出していたのでホテルについたら2時を回っていた。まだ疲れていたが気合を入れて朝飯を食いに行く。オトラルホテルのレストランはガイドブックにも載っている有名なもので、鉄筋コンクリート製ながらユルタの形をしていて、内壁にいかにもシルクロード風の壁画が一面に描いてある。ユルタというのは、遊牧民カザフ族の伝統的住居であるフェルトのテントで、中国ではパオ(包)と呼ばれているあれである。朝食はビュッフェなので、何を食べたのか科理の名前がわからない。よく育ったトマトと胡瓜、マトンの挽肉に塩をきかせた肉団子、挽肉の入ったワッフルとかが印象的。朝から喉がカラカラである。気がつくと思っていたのより壁の時計が一時間進んでいる。どうやらサマータイム制らしい。なかなか夜が明けないのも無理はない。この制度のため、日本との時差は2時間である。
さて、仕事の話は専門外の人には退屈だろうから避けます。仕事で行って、ほとんど仕事しかする時間が無くて何も見てないんだけど。
アルマトイの街は天山山脈を流れ下ってきた川が土砂をぶちまける扇状地の上にあり、伏流水で潤されているために、乾燥地にあるのに緑に覆われている。アルマトイというのは「林檎の父」という意味だそうだ。そこにソ連は一大近代都市を建設した。真ん中に路面電車が走る4車線道路が縦横に走り、緑豊かな街路樹に守られた歩道の背後に、中層の画一的なマンションがどこまでも並んでいるという、日本では「つくぱ学園都市」か「札幌」でくらいでしか見られない風景の街だ。
建物の様式は北京とそっくりである。ところどころに思いきったデザインの体育館やオペラ劇場があるし、大通りの裏は遊歩道になっていて、ちょっとした噴水や彫像が茂みに隠れている。なかなか感じの良い都市計画である。ただ、ちょっと手入れが行き届いていない感じがする。道行く人は、我々そっくりのカザフ人・黒目金髪のロシア人・出稼ぎのアフガン人やインド人等、色鮮やかな帽子のウイグル人と民族の十字路そのもの。一言で言うと北欧に中国人がなだれ込んだような光景である。
しかしまあ、なんちゆう物価の高い国だ。ホテルの食堂が馬鹿高いのはどこの国でも同じでしょうがないのだが、ティーンエージャーがハンバーガーを食っているような店でも、7〜8ドルはすぐ使ってしまう。なんと、日本と変わらない物価でないか。外食だけが高いのかと、スーパ一へ行って見る。そんなに安くない。食料品でも日本の7〜8割はしている。そして、よ一く見ると地元の人が大好きな茶は、インド・セイロン・中国からの輪入品、紙パックのジュースや缶入りの練乳はトルコ製、衣服はヨーロッパか中国からの輪入品、と国産品がまったく見当たらない。一方、交差点に山と積み上げて売られている大きなスイカ(アルブスと呼ぶ)は、せいぜい150円程度である(一緒に仕事をしたカザフ人に西瓜をおごってもらい、一言「うまい西瓜だなあ」と言ったばかりに西瓜責めの目にあった)。う一む、と思ってその人に間いてみると、公務員の部長クラスの月給が、150ドル程度とか。これで平均よりかなり高い方。「いや、よく生きてるなあ。失礼ですけど」と言うと、「外食は絶対しない。カフェ(軽食レストラン)に最後に行ったのは、ソ連崩壊前の事だ。員い物はスーパーではしない。高いから。」そういうものか、と思って中央パザールを見に行った。昔懐かし喧噪の公設市場、肉や野菜が花盛りである。